●雲一つない朝に




 一月十七日午前〇時三十六分。
 文字通り、畳の上での大往生でした。
 水以外、まったく食べ物を口にしなくなって三週間以上。生きているのが不思議なくらいで、毎日寝る前には、これがもう見納めかもしれないと思いながら、しょぼしょぼしたタヌの顔に「じゃあね」と心の中で声をかけていたのですが、その日の夕方は、いよいよ今夜あたりかなという予感がしていました。
 がりがりになったタヌを抱いている夢を見て、ふっと目が覚めたのが夜中の零時頃。もしかして……と思って下りていくと(我が家は、僕の仕事場と寝室と玄関は二階に、居間と妻の仕事場が一階にあります)、タヌは妻の仕事場の畳の上で、妻に寄り添うようにして寝ていました。このところずっと見慣れていた光景。
 容態が急変したのはそれから数分後のことです。大きく息をし、ときどきゴホっと咳き込み……。
 何もしてやれません。そっと手をあてて見守るだけ。
 呼吸が小さくなり、もう死んじゃったかなと思っても、口が少し動いていたり、肩がわずかに上下する。なかなか息が絶えず、最後はとても時間がゆっくり流れていくようでした。
 タヌの頭上には二台のパソコンが置かれ、二台ともスクリーンセーバー(画面の焼き付きを防ぐために、動く映像が延々映し出される仕組み)が起動しています。一台は花火で、いつになくきれいに、盛大に打ち上げている。
 傍らで、妻は嗚咽を漏らし、僕はタヌの霊魂が上から見下ろしているようで、何度か天井のほうを見上げました。
 心の準備はとうにできていたはずなのに、やっぱり涙が溢れ出る。
 完全に動かなくなってから、目やにを取り、お尻を拭き、あまりに伸びすぎた足の爪を切って、亡骸を円形のベッド(ペット用に売っている、枠のあるクッション)に収めました。身体を持ち上げたとき、首ががくっと垂れて、ああ、やっぱり死んでしまったんだと実感できました。
 今までは唯物論に近かったのに、タヌの最期を見届けたそのときは、肉体の死が心の消滅だと考えるのは無理なような気がしました。
 タヌはもう何度も死の淵からの生還を果たしてきました。もう駄目だろうと思っていると、しぶとく立ち直る。ここ二、三年はそんなことの連続でした。一昨年だってとても年は越せないだろうと思っていたら持ち直し、夏は無理だろうと思っていると年の瀬まで生き延び……でも、やはり最後の時は訪れる。誰にでも公平に。
 この冬になってから、何度か死に場所を捜すような素振りを見せたことがあります。まるで山の神様に呼ばれたかのように猛烈に外に出たがったり、台所の奥に潜り込んで出てこなかったり。野生の血と、僕らとのぬくぬくした暮らしへの未練と、その間で揺れ動いているかのようでした。
 最後の二日くらいは、横になったらそのまま死んでしまうと予感しているかのように、立ったままじっと動かないでいました。トイレに行くときも、途中でストップモーションがかかったようになって何分もじっとしている。まるで部屋の真ん中にタヌキの剥製が置いてあるような光景でした。
 教えたわけでもないのに、最後の最後まで下の世話で苦労させることはなかったし、死ぬ時間も、まるで僕らの都合に合わせたようでした。
 正月早々、僕は帯状疱疹という病気になり、外に出る仕事を延期してもらっていたのですが、それがなければその時間は大阪のホテルにいたはずです。まるでタヌが「行かないで」と、最後の霊力を働かせたような気がします。
 少し落ち着いてから、切った爪(前が五本ずつ、後ろが四本ずつで十八本)を二つにわけて、なぜかテーブルの上に置いてあった湯殿山の小さなお守りの和紙をほどき、それにくるんでセロテープで留めました。これはお守りとして財布の中に入れておきます。
 その後、CD『狸と五線譜』を久しぶりにかけました。ワオーンという鳴き声のところでどうしても泣けてくる。
 タヌがうちに来てから、本当にいろんなことがありました。小説を本にしてもらえたのもタヌが来てからだし、エントロピーのことを知り、世界観が変わったのも、ギターを習い始めたのもタヌが来てから。タヌと出逢う前は、KAMUNAもタヌパックレーベルもなかった。タヌがやって来る前の僕の人生は、長い序章のようなものでした。
 雲一つない朝。庭に穴を掘り、さっき、最後のお別れをしました。
 円形クッションの中に丸くなって収まっているタヌの姿は、寝ているときと全然変わらなくて、ときどき耳がぴくっと動くような気がしました。
 僕の人生において、一つの時代が終わりました。今日からAT(After Tanu)という年号が始まります。




■タヌパック本館の入口へ
■タヌパック短信の目次へ戻る
■次の短信を読む