タヌパック短信 25

「鐸」をめぐる旅(4)



●異体字・俗字・嘘字

 例えば「竜」と「龍」はどちらもJIS第一水準漢字で、JISコード表では隣り合わせに並んでいます。
 僕は今ATOK11という日本語入力システムでこの文を書いていますが、このATOK11の文字情報表示によれば、「竜」と「龍」は異体字の関係であり、「竜」は常用漢字であるが、「龍」は常用漢字外だそうです。
 言い換えれば、竜と龍はかなり認知度の高い異体字で、共に生存権を勝ち得ているということでしょうか。
「鐸」は何度も書いたようにJIS第一水準漢字で、「鈬」は第二水準です。しかし、ATOK11の文字情報によれば、「驛」は「駅」の異体字であるという情報が出るのに、鐸も鈬も「異体字はない」となっています。単純な間違いかもしれませんが、では一体「鈬」という字はなんなんでしょう。
 本音を言うと、僕はこのエッセイが藪蛇になるのを恐れています。八三年改定のときの委員が今も残っていて、「そうか、鐸を忘れていた。鈬にせんといかんな」などと、コード入れ替えを行ったり、「鐸」を抹殺して「鈬」のほうを採択したらどうしようと。そうなる前に「鈬」には消えてもらいたいとさえ思うのです。実際、一時、朝日新聞が「銅鈬」という表記をしたときは、自分が抹殺されてしまうかのような危機感を覚えました。
 そのくせ、「国」という字にはなんの抵抗も感じません。「国」という字は、今ではよほど理由がない限り「國」とは書きませんが、本来「國」が正字で、「国」は略字です。略字のほうを一般生活で使うようにしようと決めてから後に学校教育を受けたため、僕の中に「國」という字への違和感があるわけです。逆に、「掴」という字の旁が國ではなく国なのは違和感があります。結局は世代間の感覚の差ということにすぎないのでしょうか。
 ところで、これらはすべてJISコードに入っているので、この誌面でもきちんと印字できていると思います。
 それに対して、「吉」という字の、下が長い字(俗にいう「つちよし」)はどう頑張っても出ません。JISコードに入っていないからですが、この「つちよし」は、ほとんどの漢和辞典で「俗字」と定義されています。
 俗字というのはなんでしょう? 正式な異体字として認められていないが、実際に広く使われている点が「嘘字(誤字)」とは違うということでしょうか? そうなると、漢字には正字、略字(あるいは通字)、俗字、嘘字…という序列があるのでしょうか?

●こだわりをコード化させるのは単なるわがままなのか?

 作家の吉目木晴彦さんはご自分の名前に「つちよし」を使っていて、ユニコード問題にも強い懸念を表明しています。文芸年鑑にはちゃんと「つちよし」で記されていますが、これをパソコンで記述することはできません。
 ダイエーの中内功会長は、「功」の旁のほうを「力」ではなく「刀」としているそうです。この字はあるのでしょうか? 一説には、「力」は力仕事を連想させて農民みたいで嫌だから、武士を連想させる刀にしたんだなどという話もあるのですが、そうした個人レベルでの作字は、昔はたくさん行われていたのかもしれません。
 全国の戸籍原本には、渡邊の「邊」という字だけで三十以上の異体字・俗字があるそうです。中には明らかな誤字が「戸籍にこう書いてあるから」という理由でそのまま認められている例もあります。
 かつて僕は『天狗の棲む地』という小説を書きました。きっかけは、ある弱小教団(明治期に「天狗界」に自由に出入りし、水上歩行や空間移動をしたとされる人物を始祖とする教団)との出逢いでした。その教団の主管は、天狗の「狗」という字が獣偏であるのは天狗様に対して失礼であると、獣偏をりっしんべんに変えた鉛活字を作らせ、教団関係の出版物を作るときはその活字を持参して印刷所に頼み込んでいるという苦労話をしていました。凄いこだわりだなあと感心したものですが、「うちの吉田はつちよしの吉です」とか、「高島屋の高ははしごだかです」というこだわりもこれに準じている……と言ったら怒られるのでしょうね。
 こうした俗字・嘘字にまで文字コードを振っていたら、きりがないし意味もないという人がいます。あるいは、インターネット時代に、正しい日本語を国境を越えて伝える努力をしているそばから、そうしたわがままをあたかも「国の文化を守る」かのような論調で展開するのは間違っているという主張もあります。そう言われると、それももっともだなと思ってしまいます。
 朝日新聞で「銅鈬」という文字を見ただけで自分が抹殺されるかのような恐怖を抱いた経験がある僕には、吉目木さんのこだわり、苛立ちはよく分かるつもりです。「つちよし」は俗字で、「鐸」は正字なんだから全然立場が違うと威張るつもりは毛頭ありません。
 そもそも、こういう文章を書いているときに「つちよし」や「はしごだか」が入力できないのは非常に困ります。
 俗字の文字コード化に関しては、いろいろ揺れていたのですが、僕としては、やはり文字コードは可能な限り多く取ってほしいという考えに傾いてきています。表現の基盤は、贅沢すぎるということはないでしょうから。



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